免疫レーダーをかわす髄膜炎菌


 
 インターネットの健康サイトにこのような記事がありました。
海外旅行ではキスで感染する髄膜炎に注意!:http://allabout.co.jp/r_health/gc/299385/
 この問題は重要な意味があり、感染症において日本と外国では大きな相違点があり、また、髄膜炎菌は現在においてもよく解っていないことがあり調べてみることにしました。
 今回、考えてみるのは髄膜炎菌による髄膜炎です。髄膜炎菌性髄膜炎の患者の致死率は10−15%で、適切な治療がされなければ致死率50%といわれています。高齢者の致死率はより高いものとされています。回復した患者でも10−20%に聴力障害や学習障害などの後遺症が残存する恐ろしい病気です。日本においては第二次世界大戦前後が発生のピークで以後減少しており現在ではきわめて稀な疾患となっており、1年間あたり数人の発生数です。しかし、海外においては特に髄膜炎ベルトとよばれるアフリカ中央部においてその罹患率が高く、流行期には100人に1人が罹患するというデータもあります
1)。また、先進国においても散発的に発生しています。髄膜炎菌性髄膜炎は流行することがあり得る感染症です。米国では現在でも毎年1000−3000人の患者発生が報告されておりそのうち、年間100−300人が死亡していると推定されています。米国では寄宿舎に住む大学新入生が髄膜炎になりやすいというデータがあります。大学新入生全体の髄膜炎発生率が10万人中1.8人であるのに比べて、寄宿舎に住む大学新入生は10万人中5.1人と非常に高くなっており、寄宿舎入居前に髄膜炎菌ワクチン接種が推奨されています1)。何故このような環境で感染が蔓延するかというと、髄膜炎菌を無症状で保持するキャリアーが存在するからです。髄膜炎菌は人にしか存在せず、人にのみ感染症を起こします。人の鼻やのどの粘膜に定着しています。そして、キスや咳(1メートルも飛散するそうです!)によって他人に感染・定着してゆきます。
 欧米における調査では健康なひとで髄膜炎菌を保有している保菌率は5〜15%とされ、特に軍隊や学校の寄宿舎内では20〜40%とかなり高く報告されています。近年の日本ではほとんど調査がなされていませんが、田中らの2000−2003年の報告
2)では0.4%でした。
 何故このような健康保菌者が存在するのでしょうか?。髄膜炎菌は人の体内でしか存在しえず、乾燥に弱く自然界には存在しません。すなわち菌のほうから考えてみると宿主(この場合は人)と無用な戦いをして白血球に食べられたり抗生剤に殺されたりするよりも、悪さをしないので寝泊りさせてくださいという作戦をとっているわけです。また、逆に激しい戦いをして勝ったとしても宿主が死んでしまったらそれはそれで居場所をなくすことにもなるわけです。髄膜炎菌の免疫機構として捕体が重要な働きをします。捕体は血液や唾液中などに存在し、細菌やウイルスなどの感染微生物に接着し外敵の目印をつけて白血球を呼び寄せ、感染微生物を白血球に食べさせ退治する大切な役目をします。いわば戦争におけるレーダーのような役目をします。実際、捕体成分が生まれつき低い人は髄膜炎菌髄膜炎にかかりやすいことが知られています。人の細胞は自分の細胞を自分で攻撃しないように細胞表面に個別の糖蛋白をもち、これを捕体に提示することにより攻撃を免れています。ところが髄膜炎菌は表面にH因子結合蛋白というものを作成し、これが人の個別の糖蛋白に類似し、捕体の目印を免れているという報告がされました
3)。実際、日本や欧州で発生している血清型B群に対するワクチンは、B群の抗原性が非常に人の細胞の抗原性に類似しているためまだワクチン製造が成功しておりません。
 それでは保菌のみの人と発症する人の差はどこにあるのでしょう?。
 さきほど書きましたように生まれつき補体の少ない人や、脾臓のない人、AIDSの人などは感染・発症しやすいことが解っています。また、アフリカの髄膜炎ベルトでは乾季に圧倒的に発症することが多く、咽頭粘膜の乾燥が菌の侵入を容易にするものと類推されています
1)
 菌側の要因はどうでしょう?。
 髄膜炎は12の血清型と分類不能型に分けられますが、人に感染をおこすのは6種類のみで明らかに菌の毒性に差があります。外膜を多糖体の莢膜で覆われていないものは人に無害です。莢膜を有しているもののうち強毒性菌の病原性因子の由来が研究されていますが現在でもまだわかっておりません。Opc外膜蛋白、線毛、鉄獲得因子、GGTなどが想定されていますが、証明はされておらず、むしろ他の病原細菌とは異なる未知のメカニズムで病原性を発揮していることが想定されています。
 日本で髄膜炎菌の保菌者が少ない原因はわかっておりませんが、日本人が髄膜炎菌に対して免疫を有していないことは間違いなさそうで、日本人が髄膜炎菌保菌者の多い集団に入ったり、キスを多くしたりすると髄膜炎に罹患する可能性は高いかもしれません。

以下のような方に髄膜炎ワクチン接種が勧められています。
@ メッカ巡礼に際してサウジアラビアへ渡航する人。
A アフリカ髄膜炎ベルト地域へ渡航する人。
B 医学的にリスクのある人(無脾症や補体欠損症など)。
C 米国などに留学するもので、寮生活をする予定の人。


 髄膜炎菌ワクチンは日本では承認されていませんので輸入ワクチンになります。4価多糖体ワクチンと4価結合型ワクチンがありますが、両者に大きな違いはありません。後者が効果が長続きするといわれています。
 髄膜炎菌はまだ不明な部分が多いまま、日本では不思議と減少し、忘れられつつある病原菌ですが、今後再び流行する可能性もあり、油断大敵の感染症です。

                                    平成23年1月25日
 
参考文献
1) 細菌性髄膜炎について:横浜市衛生研究所
   http://www.city.yokohama.jp/me/kenkou/eiken/idsc/disease/mening1.html
2) 田中 博ら:わが国の健康者における髄膜炎菌の保菌状況 . 感染症誌 . 2005 : 79 : 527 - 533 .
3) 髄膜炎菌はヒトの細胞を模倣し自然免疫を免れる . Medical Tribune . 2009 : 42 : 48 - 49 .
4) 高橋 英之:髄膜炎菌Neisseria meningitisの病原性に関する研究 . 日本細菌学雑誌 .
2009 : 64 : 291 - 301 .